チュロスとチュリトスはどちらが正しいのか

映画をひさしぶりにみた。
舟を編む」と「天才スピヴェット」のふたつ。

どちらも全然違うけど、同じ、というか表裏一体のような、。

舟を編むは言葉を集めてまとめて一冊の辞書を作っていく話。
普段はわかりきっていて考えもしない言葉にちゃんと意味を持たせて伝わるようにする。
言葉にはそれぞれ意味がある。
だけど恋っていう言葉だけでは相手に気持ちは伝わらないし、
伝えるためには試行錯誤する。映画ではそれが恋文だった。
言葉も大事だけど、そういう伝わらないところは気持ちを外に出す、
三校までいったのに語彙チェックをはじめからやる時とか、
飲み会の席での先生の熱さとか、
同僚と親しくなるためにがばっと肩をつかんで距離をつめる感じとか、
そういう言葉以外の部分が印象的な映画だった。


天才スピヴェットはかわいい映画だった。3Dじゃなくて2Dでよかったけど。
子どもならではの家族への誤解というか、不安。
家族にはちゃんと絆があって、でもそれはまだ子どもにはわかりづらいものだったのだろうな。
よく、自分はお兄ちゃんより可愛がられてない、とか兄弟いるひとで言うけど、
からしたらそんなことない、みたいな感じ。
もっと言葉と態度がほしかったんだろうなぁ。
全体的にかわいいのに不安感が出てるのか悲しい感じが終始続いてた。
映画のように外国人ならハグで時々確認するけど、日本人はそうもいかない。
だけど、家族の絆あるようで見えづらくなるときがあるから、
態度に出てるとかまけずに時には言葉も必要なのかなと思った。

なので、結局言葉もそれ以外の部分も必要なのだね。